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第4話 「人との出会いの中から学ぶ」
私たちの消防本部では消防弱者と呼ばれる高齢者や障害者に対し、講習会を開催したり、防火診断を行ったり、手話の研修会なども取り入れ現場に即応できるようにしています。
私も、手話の研修を受けましたが、現場で対応することはまず無いだろうと考え、それ以後手話のテキストを開くこともありませんでした。
また、広報係に配属されるまで、消防弱者が何を考え、何を望んでいるのか、まったく考えた事もありませんでした。
それが広報係を経験し、保育所や幼稚園、また、各種団体の消防防災訓練に行き、いろいろな人との出会いの中から学ぶことが多くあります。
それはある幼稚園に行ったときのことです。
車椅子に乗った園児が廊下の段差にひっかかりどうしても教室に入ることができないでいました。
それを見た私は後ろから車椅子を押そうとすると、先生が「手を出さないでください」と言い、その子をじっと見つめていました。
私は「なぜ、車椅子に乗っているのに助けてあげればいいのに・・・」と思いました。
それから数日後、その先生に「車椅子に乗ってる園児がいて、なぜ、手を差しのべたらいけないのですか」と尋ねると、「あなたはあの子が困った時、いつもそばにいて助けてあげることができますか?あの子はこれからいろいろな事に立ち向かっていかなければいけません。いつも周りに助けてくれる人が居るとは限りません。」
私はこの話を聞き、すごいショックを受けました。
私たちは、一年に数回しかその子と接する機会がありませんが、先生は毎日色々な子供と接し、真剣にその子供達の将来を考え、独り立ちさせることを考えていたのです。
私たち消防職員は、この先生が園児のことを考えているように、消防弱者の事を考えているでしょうか。
一般的には「火事で避難するときはハンカチを口にあて避難してください」と指導しますが、手に障害のある人の場合には、また、車椅子を使用している人の場合にはなど、いろいろな問題があります。
私たちは防火防災訓練に行っても、いつも自分たちの尺度で考え、通り一辺倒の指導をしてきたのではないでしょうか。
それでは現在行っている消防弱者に対する防火防災指導に、何を加え、何を実践すればよいのでしょうか。
まず第一に消防弱者との密接なコミュニケーションを図ること。
高齢者や障害者が何を考え、何を望んでいるのかを把握することができるのではないでしょうか。
第二に消防弱者に積極的に訓練の参加を呼び掛けること。
高齢者や障害者は手足が不自由なため、移動することが苦痛であると思い込み、参加を呼び掛けるのを遠慮し、私たちの方から距離をあけているのではないでしょうか。
私は、どしどし訓練に参加を呼び掛けその反省にたって、お互いに災害対策を考えて行けばいいのではないかと考えます。
高齢者や障害者に対して、消防の一方通行の指導ではなく、もっと消防弱者の中に踏み込んで指導することが本当の意味での「消防弱者対策」であると考えます。
私は必至で頑張っていた車椅子の園児と、黙って見つめて心で車椅子を押していた先生の姿を思い浮かべ、いろいろな人との出会いの中から多くのことを学び、期待と信頼される消防職員になれるよう頑張ります。
私も、手話の研修を受けましたが、現場で対応することはまず無いだろうと考え、それ以後手話のテキストを開くこともありませんでした。
また、広報係に配属されるまで、消防弱者が何を考え、何を望んでいるのか、まったく考えた事もありませんでした。
それが広報係を経験し、保育所や幼稚園、また、各種団体の消防防災訓練に行き、いろいろな人との出会いの中から学ぶことが多くあります。
それはある幼稚園に行ったときのことです。
車椅子に乗った園児が廊下の段差にひっかかりどうしても教室に入ることができないでいました。
それを見た私は後ろから車椅子を押そうとすると、先生が「手を出さないでください」と言い、その子をじっと見つめていました。
私は「なぜ、車椅子に乗っているのに助けてあげればいいのに・・・」と思いました。
それから数日後、その先生に「車椅子に乗ってる園児がいて、なぜ、手を差しのべたらいけないのですか」と尋ねると、「あなたはあの子が困った時、いつもそばにいて助けてあげることができますか?あの子はこれからいろいろな事に立ち向かっていかなければいけません。いつも周りに助けてくれる人が居るとは限りません。」
私はこの話を聞き、すごいショックを受けました。
私たちは、一年に数回しかその子と接する機会がありませんが、先生は毎日色々な子供と接し、真剣にその子供達の将来を考え、独り立ちさせることを考えていたのです。
私たち消防職員は、この先生が園児のことを考えているように、消防弱者の事を考えているでしょうか。
一般的には「火事で避難するときはハンカチを口にあて避難してください」と指導しますが、手に障害のある人の場合には、また、車椅子を使用している人の場合にはなど、いろいろな問題があります。
私たちは防火防災訓練に行っても、いつも自分たちの尺度で考え、通り一辺倒の指導をしてきたのではないでしょうか。
それでは現在行っている消防弱者に対する防火防災指導に、何を加え、何を実践すればよいのでしょうか。
まず第一に消防弱者との密接なコミュニケーションを図ること。
高齢者や障害者が何を考え、何を望んでいるのかを把握することができるのではないでしょうか。
第二に消防弱者に積極的に訓練の参加を呼び掛けること。
高齢者や障害者は手足が不自由なため、移動することが苦痛であると思い込み、参加を呼び掛けるのを遠慮し、私たちの方から距離をあけているのではないでしょうか。
私は、どしどし訓練に参加を呼び掛けその反省にたって、お互いに災害対策を考えて行けばいいのではないかと考えます。
高齢者や障害者に対して、消防の一方通行の指導ではなく、もっと消防弱者の中に踏み込んで指導することが本当の意味での「消防弱者対策」であると考えます。
私は必至で頑張っていた車椅子の園児と、黙って見つめて心で車椅子を押していた先生の姿を思い浮かべ、いろいろな人との出会いの中から多くのことを学び、期待と信頼される消防職員になれるよう頑張ります。
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第3話 『現場活動で思うこと・・・』
私が救助隊の副隊長に任命されたころのことでした。署内で待機中の午後9時30分ごろ、通信室から救急救助指令が出ました。「〇〇町〇〇付近で普通乗用車の単独事故」との出動指令でした。少し緊張しながら救助工作車に機関員とともに乗り込みました。出動途上の無線連絡によると「車で通りがかりの人が事故を発見し、119番通報してきたもので詳細についてはわからない。」とのことでした。現場近くへ行くと救急隊が先着しており、患者観察も十分にできない状況なのか、隊員3名が呆然と立っていたことが記憶に残っています。
現場に到着すると救助工作車のヘッドライトに写しだされた光景は悲惨なものでした。普通乗用車がカーブを曲がりきれず道路脇の電柱に激突し、その衝撃で事故車がコンクリート製の電柱に巻きつき、電柱は根本から折れ、電線のみで支えられている状態で、事故車は全く原形を止めていない状況でした。
救急隊長から患者容態について、全身打撲で瞳孔が散大し、意識もなく、心肺停止でほぼ即死の状態であるとの報告を受け、救助工作車の機関員とともに、カッター及びスプレッター等の救助資機材を現場に運び、患者救出活動に着手しようとしましたが、救急隊員3名、救助隊員2名の計5名では、電柱の倒壊等による二次的な災害も考えられることから、本署に対し消防隊の応援を求め、多くの資機材を使用して救出を試みましたが、時間ばかり経過し救出活動は困難を極めました。
10分か15分後に消防隊が現場到着した頃、現場付近の道路には車が停滞し、そのうえ現場付近には多くのヤジ馬が集まりはじめ、そのヤジ馬を整理しなければと思いながらも救出活動を続けました。
時間が経過するにつれ、ヤジ馬のば声が激しくなるとともに、事故車を運転していた若者の家族も現場に来られ、涙を流しながら「息子は大丈夫か」と何回も何回も尋ねられました。現場到着時に救急隊長から患者の容態の報告を受けていたことから、「今、全力で救出しています。」としか答えようがありませんでした。
現場到着から約40分が経過したころ、隊員たちの懸命の救助活動により幸運にも電柱が倒れることなく、事故車は電柱からの切り離すことができ、ほっと胸をなでおろしたその時のことです。
意識もなく、口から血を吐き、傷だらけの若者が事故車の運転席に座った状態で、投光器の明かりに写しだされ、現場にいる人たち全員が無言となり、一瞬が静まりかえりました。
私は、その時全身に大きな衝撃がはしりました。それはヤジ馬の整理をしていなかったこと、特に患者の家族に対する思いやりがなかったことに気づいた瞬間でした。
救急隊員が無言で駆けより、心肺蘇生を開始したと同時に、家族も駆けより大声で泣き叫んだことを今でもはっきりと覚えています。
消防が行う現場活動は、各種災害の最前線であり失敗が許されません。全力を尽くして実施した現場活動でも自己満足することなく、その活動等を反省し、その教訓を次の現場活動に生かすことが重要で、現場は、消防職員にとって災害と格闘する場なのです。
イラスト:救助活動
現場に到着すると救助工作車のヘッドライトに写しだされた光景は悲惨なものでした。普通乗用車がカーブを曲がりきれず道路脇の電柱に激突し、その衝撃で事故車がコンクリート製の電柱に巻きつき、電柱は根本から折れ、電線のみで支えられている状態で、事故車は全く原形を止めていない状況でした。
救急隊長から患者容態について、全身打撲で瞳孔が散大し、意識もなく、心肺停止でほぼ即死の状態であるとの報告を受け、救助工作車の機関員とともに、カッター及びスプレッター等の救助資機材を現場に運び、患者救出活動に着手しようとしましたが、救急隊員3名、救助隊員2名の計5名では、電柱の倒壊等による二次的な災害も考えられることから、本署に対し消防隊の応援を求め、多くの資機材を使用して救出を試みましたが、時間ばかり経過し救出活動は困難を極めました。
10分か15分後に消防隊が現場到着した頃、現場付近の道路には車が停滞し、そのうえ現場付近には多くのヤジ馬が集まりはじめ、そのヤジ馬を整理しなければと思いながらも救出活動を続けました。
時間が経過するにつれ、ヤジ馬のば声が激しくなるとともに、事故車を運転していた若者の家族も現場に来られ、涙を流しながら「息子は大丈夫か」と何回も何回も尋ねられました。現場到着時に救急隊長から患者の容態の報告を受けていたことから、「今、全力で救出しています。」としか答えようがありませんでした。
現場到着から約40分が経過したころ、隊員たちの懸命の救助活動により幸運にも電柱が倒れることなく、事故車は電柱からの切り離すことができ、ほっと胸をなでおろしたその時のことです。
意識もなく、口から血を吐き、傷だらけの若者が事故車の運転席に座った状態で、投光器の明かりに写しだされ、現場にいる人たち全員が無言となり、一瞬が静まりかえりました。
私は、その時全身に大きな衝撃がはしりました。それはヤジ馬の整理をしていなかったこと、特に患者の家族に対する思いやりがなかったことに気づいた瞬間でした。
救急隊員が無言で駆けより、心肺蘇生を開始したと同時に、家族も駆けより大声で泣き叫んだことを今でもはっきりと覚えています。
消防が行う現場活動は、各種災害の最前線であり失敗が許されません。全力を尽くして実施した現場活動でも自己満足することなく、その活動等を反省し、その教訓を次の現場活動に生かすことが重要で、現場は、消防職員にとって災害と格闘する場なのです。
イラスト:救助活動
第2話 『ある若者の死を無駄にしないために・・・』
夜八時ごろ、「風呂場で倒れている」との通報により出動したところ、高校生の男子が脱衣場で父親に抱き抱えられているのが目に入った。
私は、大丈夫ですかと駆け寄ったところ高校生は意識が無く、呼吸停止、心停止の状態であった。すぐに隊員とともに心肺蘇生を実施しながら病院搬送となった。
しかし、近くの病院は診療担当外のため遠くの病院となった。揺れる車の中でなんとか蘇生させるとの一念で心肺蘇生を続けながら病院へ着いた。
病院では、担架のまま救急隊が心肺蘇生を続け、医師が気管内挿管を実施したところ脈拍は戻り、呼吸も戻った。「よし、やった」と思ったのもつかの間、自発呼吸も一分ぐらいで停止し、脈拍もこれにあわせて途絶えてしまった。すぐに私達と医師等により心肺蘇生を繰り返した。また自発呼吸が戻った。「よし、こんどは」と思ったが駄目だった。何回も何回も心肺蘇生を繰り返し、救急隊員の顔から汗が流れ落ちる。しかし、徐々に体は冷たくなり脈拍の波形も出ない状態となった。病院へ着いて約一時間が経過し、私達は落胆した。
これからという若者の命を救えなかった。
救急隊が現場到着したとき、父親に抱き抱えられただけの状態で何も応急処置がされていなかったことである。少しでも心肺蘇生をしていてくれたらもっと効率が良かったのではないか。
私は、この日以来いつも救急講習会では、実技に参加してくれない引っ込み思案の人にこの体験を話し、心肺蘇生の必要性や観察の仕方についての指導をしている。
お父さん、お母さん、いくら「しっかりしーよ、がんばりよ」と力一杯に抱きかかえても命は蘇りません。親の愛情が一杯あっても、人工呼吸、心臓マッサージをしなければ助かりません。こうした話をすると、住民の方も次第に前へ出て何とか覚えようとする意気込みが見えてくる。
私は、この青年の死を絶対に無駄にしないためにも、地域住民に救急講習等で応急処置の普及を図っていきたい。
私は、大丈夫ですかと駆け寄ったところ高校生は意識が無く、呼吸停止、心停止の状態であった。すぐに隊員とともに心肺蘇生を実施しながら病院搬送となった。
しかし、近くの病院は診療担当外のため遠くの病院となった。揺れる車の中でなんとか蘇生させるとの一念で心肺蘇生を続けながら病院へ着いた。
病院では、担架のまま救急隊が心肺蘇生を続け、医師が気管内挿管を実施したところ脈拍は戻り、呼吸も戻った。「よし、やった」と思ったのもつかの間、自発呼吸も一分ぐらいで停止し、脈拍もこれにあわせて途絶えてしまった。すぐに私達と医師等により心肺蘇生を繰り返した。また自発呼吸が戻った。「よし、こんどは」と思ったが駄目だった。何回も何回も心肺蘇生を繰り返し、救急隊員の顔から汗が流れ落ちる。しかし、徐々に体は冷たくなり脈拍の波形も出ない状態となった。病院へ着いて約一時間が経過し、私達は落胆した。
これからという若者の命を救えなかった。
救急隊が現場到着したとき、父親に抱き抱えられただけの状態で何も応急処置がされていなかったことである。少しでも心肺蘇生をしていてくれたらもっと効率が良かったのではないか。
私は、この日以来いつも救急講習会では、実技に参加してくれない引っ込み思案の人にこの体験を話し、心肺蘇生の必要性や観察の仕方についての指導をしている。
お父さん、お母さん、いくら「しっかりしーよ、がんばりよ」と力一杯に抱きかかえても命は蘇りません。親の愛情が一杯あっても、人工呼吸、心臓マッサージをしなければ助かりません。こうした話をすると、住民の方も次第に前へ出て何とか覚えようとする意気込みが見えてくる。
私は、この青年の死を絶対に無駄にしないためにも、地域住民に救急講習等で応急処置の普及を図っていきたい。
第1話 『あの教訓を忘れない・・・』
神戸の街を訪れるたびに、脳裏には今でもあの時の状況が鮮明に蘇ってくる。
突然訪れた激しい揺れは、地震というイメージを遥かに超越したものであった。
平成7年1月17日5時46分に発生した、兵庫県南部地震は多くの尊い命と莫大な財産を一瞬にして奪ってしまうことになった。
私はその当時、救急救命士の資格取得のため、神戸市救急救命士養成所第○期生として入校中で、神戸市灘区から養成所のある神戸市中央区まで電車で通学する生活を送っていました。
震災前日の夜、何の前触れを感じることもなく、またこの様な災害に巻き込まれるということは全く頭にないまま、いつもと同じように床に就きました。
そして翌日未明、大地震が発生!
突然襲った激しい揺れに、床から飛び起きた私は何が起こっているか全く考える間もなく、暗闇の中でこれまで経験したことのない激しい揺れを感じながら、いつのまにか「死」という言葉が脳裏を過ぎり、自らの命の危険を感じたことを覚えています。
長く感じられた揺れも一旦収まり、避難するため部屋の柱に掛けておいた懐中電灯を探したが壁には掛かっておらず、散乱している床面を手探りで探しました。
ようやく探し当てた懐中電灯を手にすぐさま屋外に避難するためのドアに向かったとき、懐中電灯に照らされた様子はまるで部屋をひっくり返したような感じでした。
私は部屋から出ようとドアロックを解除してドアを開けようとしましたが、ドアは激しい揺れにより変形していたためなかなか開かず、余震の恐怖を感じながらドアをこじ開け、何とか自力で屋外に避難することができました。
そして屋外に出た私の目に最初に飛び込んできたのは、付近の木造家屋がことごとく倒壊した光景で、更に辺りにはガス臭がたちこめていました。
このときの周りの悲惨さと、その異様な静寂が、むしろこの災害の大きさを物語っていました。
私は暗闇の中、同じ住宅に住んでいる同期生と協力して、建物内に閉じ込められた人たちを助け出そうとしましたが、何の道具も持たない私たちにとってその作業は困難を極めました。
夜が明けるにつれて周りの悲惨な状況が明らかとなり、ラジオから直下型の地震であることが分かりました。
そしてしばらくするとあちらこちらで黒煙が出ていることに気が付き、特に東側については近くで火災が発生しているようでした。
私たちは消火作業を行うため、住宅の北側に隣接する灘消防署に駆け込み、予備のポンプ車を使って灘消防署員と共に防火水槽、学校のプールなどに水利部署を変えながら消火活動を行うこともありました。
また、消火活動中も炎が迫る中、家屋から助けを求める声が聞こえたため、急遽救助活動を行うこともありました。
消火活動も一段落したころ、私たちは救助を主体として活動を行うこととなり、救助の要請があった家屋を順番に廻って行いました。
要救助者の殆どは家屋の一階部分の倒壊により一階に閉じ込められたもので、家屋の二階部分から進入して、のこぎり等により二階の床面、一階の天井等を取り除いての救助活動でしたが、梁や柱に挟まれている状況で、すでに亡くなられている人が殆どでした。
その日は、日が暮れるまで救助活動を主体に行動し、その夜自宅に戻りました。
この震災の状況をテレビや新聞等で見た人は、大震災に対するこれまでの備え、防災訓練など役に立つのだろうかなど、人間の無力さを痛感したことと思います。
確かにマスコミを通じて我々に伝わってくる被害の状況を見る限り、人間の無力さだけが際立ってしまうのは仕方がないことなのかもしれません。
また、自衛隊の出動が遅かった、防火用水の整備がなされていなかった、水や食糧を備蓄していなかったなど、行政の初動体制や防災対策の不備については、特にマスコミから責められることとなりました。
しかし、大災害に対し人間は無力だったのでしょうか。
行政の初動体制や防災対策を万全にすれば被害がなくなるのでしょうか。
それはとんでもない間違いだと思います。
震災により多くの命と莫大な財産が奪われた反面、あの激震から自らの命や財産を守ることができた人はその数百倍に上っています。
今回の震災では、特に淡路島の北淡地域の被害を最小限にとどめたのは地元消防団員と地域住民による救援、救出活動であり、また阪神地域においても、地域住民が協力して倒壊家屋に閉じ込められた人を救出したり、消火栓が使用できない中、大火から地域を守った人々が大勢いたのです。
そして、今後行政がとてつもない費用を掛けて初動体制などの防災体制を整備したとしても、全ての災害現場に到着するには数時間を要するため、火災の延焼防止、倒壊家屋からの救出活動で重要であるこの時間は住民だけで災害と戦わなければなりません。
このようなことから、災害に強いまちづくりの基盤はやはり住民一人ひとりの自主的な防災活動に負うところが多く、これは防災対策の原点であり、自主防災組織の確立・強化には必要不可欠な要素であることは今更言うまでもないことです。
しかし、このことは過去の震災の教訓にもあったことですが、その真の大切さは大震災と闘った人のみが知ることができるもので、それ以外の人間は時間とともに風化してしまっているのが現状です。
阪神・淡路大震災は私たちに幾多の教訓を残しました。
私達は、この大震災で犠牲になった多くの命を無駄にすることなく、また防災に対する意識、助け合い、いたわりと言った震災と闘った人々の訴えを風化させぬよう、機会あるたびに震災体験者としての生の声で防災意識の大切さについて訴え続けて行こうと思います。
突然訪れた激しい揺れは、地震というイメージを遥かに超越したものであった。
平成7年1月17日5時46分に発生した、兵庫県南部地震は多くの尊い命と莫大な財産を一瞬にして奪ってしまうことになった。
私はその当時、救急救命士の資格取得のため、神戸市救急救命士養成所第○期生として入校中で、神戸市灘区から養成所のある神戸市中央区まで電車で通学する生活を送っていました。
震災前日の夜、何の前触れを感じることもなく、またこの様な災害に巻き込まれるということは全く頭にないまま、いつもと同じように床に就きました。
そして翌日未明、大地震が発生!
突然襲った激しい揺れに、床から飛び起きた私は何が起こっているか全く考える間もなく、暗闇の中でこれまで経験したことのない激しい揺れを感じながら、いつのまにか「死」という言葉が脳裏を過ぎり、自らの命の危険を感じたことを覚えています。
長く感じられた揺れも一旦収まり、避難するため部屋の柱に掛けておいた懐中電灯を探したが壁には掛かっておらず、散乱している床面を手探りで探しました。
ようやく探し当てた懐中電灯を手にすぐさま屋外に避難するためのドアに向かったとき、懐中電灯に照らされた様子はまるで部屋をひっくり返したような感じでした。
私は部屋から出ようとドアロックを解除してドアを開けようとしましたが、ドアは激しい揺れにより変形していたためなかなか開かず、余震の恐怖を感じながらドアをこじ開け、何とか自力で屋外に避難することができました。
そして屋外に出た私の目に最初に飛び込んできたのは、付近の木造家屋がことごとく倒壊した光景で、更に辺りにはガス臭がたちこめていました。
このときの周りの悲惨さと、その異様な静寂が、むしろこの災害の大きさを物語っていました。
私は暗闇の中、同じ住宅に住んでいる同期生と協力して、建物内に閉じ込められた人たちを助け出そうとしましたが、何の道具も持たない私たちにとってその作業は困難を極めました。
夜が明けるにつれて周りの悲惨な状況が明らかとなり、ラジオから直下型の地震であることが分かりました。
そしてしばらくするとあちらこちらで黒煙が出ていることに気が付き、特に東側については近くで火災が発生しているようでした。
私たちは消火作業を行うため、住宅の北側に隣接する灘消防署に駆け込み、予備のポンプ車を使って灘消防署員と共に防火水槽、学校のプールなどに水利部署を変えながら消火活動を行うこともありました。
また、消火活動中も炎が迫る中、家屋から助けを求める声が聞こえたため、急遽救助活動を行うこともありました。
消火活動も一段落したころ、私たちは救助を主体として活動を行うこととなり、救助の要請があった家屋を順番に廻って行いました。
要救助者の殆どは家屋の一階部分の倒壊により一階に閉じ込められたもので、家屋の二階部分から進入して、のこぎり等により二階の床面、一階の天井等を取り除いての救助活動でしたが、梁や柱に挟まれている状況で、すでに亡くなられている人が殆どでした。
その日は、日が暮れるまで救助活動を主体に行動し、その夜自宅に戻りました。
この震災の状況をテレビや新聞等で見た人は、大震災に対するこれまでの備え、防災訓練など役に立つのだろうかなど、人間の無力さを痛感したことと思います。
確かにマスコミを通じて我々に伝わってくる被害の状況を見る限り、人間の無力さだけが際立ってしまうのは仕方がないことなのかもしれません。
また、自衛隊の出動が遅かった、防火用水の整備がなされていなかった、水や食糧を備蓄していなかったなど、行政の初動体制や防災対策の不備については、特にマスコミから責められることとなりました。
しかし、大災害に対し人間は無力だったのでしょうか。
行政の初動体制や防災対策を万全にすれば被害がなくなるのでしょうか。
それはとんでもない間違いだと思います。
震災により多くの命と莫大な財産が奪われた反面、あの激震から自らの命や財産を守ることができた人はその数百倍に上っています。
今回の震災では、特に淡路島の北淡地域の被害を最小限にとどめたのは地元消防団員と地域住民による救援、救出活動であり、また阪神地域においても、地域住民が協力して倒壊家屋に閉じ込められた人を救出したり、消火栓が使用できない中、大火から地域を守った人々が大勢いたのです。
そして、今後行政がとてつもない費用を掛けて初動体制などの防災体制を整備したとしても、全ての災害現場に到着するには数時間を要するため、火災の延焼防止、倒壊家屋からの救出活動で重要であるこの時間は住民だけで災害と戦わなければなりません。
このようなことから、災害に強いまちづくりの基盤はやはり住民一人ひとりの自主的な防災活動に負うところが多く、これは防災対策の原点であり、自主防災組織の確立・強化には必要不可欠な要素であることは今更言うまでもないことです。
しかし、このことは過去の震災の教訓にもあったことですが、その真の大切さは大震災と闘った人のみが知ることができるもので、それ以外の人間は時間とともに風化してしまっているのが現状です。
阪神・淡路大震災は私たちに幾多の教訓を残しました。
私達は、この大震災で犠牲になった多くの命を無駄にすることなく、また防災に対する意識、助け合い、いたわりと言った震災と闘った人々の訴えを風化させぬよう、機会あるたびに震災体験者としての生の声で防災意識の大切さについて訴え続けて行こうと思います。